
2004二度目の奉天1015
引き揚げの為に奉天に集結して、番地は忘れたが朝日街の瓜実顔の美人の細君と、私と同じ年頃と幾つか下の2人姉妹を子供に持つ白木とか言う人の家に間借りをした。
当主は酒乱で親父は相手をさせられては愚痴をこぼした。
其処ではソ連の軍票が通用していた。他の国の軍票は知らないが実に安っぽい赤色の目立つ印刷だった。偽札の話は聞かなかった。
其親父も下級社員で、集結後の奉天では縁故ツテも無くて良い仕事が無く、満州各地の田舎からやって来て学校等のコンクリに収容されて凍死した人や路傍で凍死した人を郊外の長沼公園に埋葬する為に運ぶ仕事を遣った事も有る。農業用のフォークでカチンカチンに凍った死骸を荷馬車に積み上げたそうだ。
或夏の日、日蓮宗満昌寺の側を通ったら凍死人を郊外の長沼公園に改葬するとかで棺桶ごと何十体も掘り出して山積みにしていた。黒みがかった茶色の棺桶の所々が朽ちて腐り手足がはみ出し腐汁が流れて溜まりを作り粘り着く様な強烈な腐臭は風下を何キロも漂った。此経験が有れば葬式で線香を焚く起源も自ずから理解されると言うものだ。
家計が苦しいから商売をするとて殻付きの落花生を新聞を三角に折った袋に入れブリキの円い缶に入れて街角に立ったが空腹で少しづつちょろまかす方が多くて商売に成らなかった。
小さなスポンジ・ケーキを作った奴が居て是はソ連兵に好評だった。此奴は仲々に商売の巧い奴で、後年出会ったどの商売上手、世渡り上手にも共通する特徴が有った。人は見掛けに依らないと言うが、見掛けや話し振りで多少は判る様に成らないと騙される確率が高く成る。30年も生きれば人間の性格は固定するから見分け様を心得るのも勉強の内だ。
頭の良い大人が居て、小型の日時計を作って、露助に腕時計を取られた日本人に売り歩き仲々の商売に成った様だ。何時でも何処でも芸は身を助ける。
落花生売りをして居る時に大通りをチビのソ連少年兵が通った。左手にヘットの入った、右手にウォトカの入った緑色の小瓶を持ち、交互にラッパ飲みしながら闊歩していた。戦勝国民の得意さ加減を看た。
日本人の腕時計は皆下級ソ連兵に没収され、彼等は動かない物も含めて片手に5、6個も腕時計を着けて悦に入って日本人に迄見せていた。殆ど馬鹿であるとて日本人は陰で笑った。
或日本人が将校を招待したところ仲々靴を脱いで室内に入らず、やっと恥ずかしそうに靴を脱いだら靴下の代わりに襤褸を巻き付けていたという。余程上に行かないと靴下などは将校にさえ贅沢品だったらしい。其ソ連が宇宙産業では米国の向こうを張ったのだから工業の偏頗性が窺われる。
日本人の女の多くはソ連兵に強姦されない様にと坊主にして顔に煤を塗ったがソ連兵はそんなのは直ぐに判ると笑っていたから強姦されなかった人は幸運だったのだ。
或日本人主婦は強姦された後に局部を能く洗い塩を振って清めた。露助に性病を感染されたと言う話は聞かなかったが、子供だったから聞かされなかった丈の事だったかも知れない。
或母親はソ連兵に乳児の両足を片手で掴み振り回して家の壁の角で頭を粉砕され気が狂った。
近所の、元は満鉄の偉いさんの邸宅にソ連の将校が住んで居て食用の牛を屠殺するのは額にピストル一発で何とも呆気なかった。
母は家計の苦しさから満人経営の酒場に勤め其内に春をひさがされた。
当時父が酒に溺れたのが其所為とは随分後になって知った。能く昼間から酔い潰れて階段の下に伸びて大きな鼾をかいて顔一面に蠅をたからせて居て、近所の奥さんに教えられて部屋まで母と二人で引きずる様にして運んだ。
食糧事情が極端に悪かったので私の健康を心配した母が私に何彼を食べさせる為に駅前広場の近くで度々待ち合わせた。
広い板の下に一輪車を着けた物の上一杯に糯粟を蒸した厚さ10センチ程の大きな塊を載せ、中に種を抜き甘く煮た棗を散らしたのを積み布で上を覆っていた「チェゴ」は仲々美味かった。必要量を大きな支那包丁で切り取って売るのだ。
普段の食べ物は精白の度合いの低い黒い程に真っ赤な高黍(コーリャン)丈でどんな調理をしても不味かったが貧乏人には他に喰う物が無かった。
此頃煉瓦に溝を刻んでニクロム線を延ばして填め込み電気焜炉を作った。線が切れれば其箇所を合わせて捻り硝子の粉を振りかけて通電すると繋がった。
木の弁当箱の両側にアルミか銅板電極を2枚張り付け通電してパン焼き器を作ったのは何処で覚えたか定かでない。多分、夕張でだと思う。
此家の裏手で遊んで居た時、夕方近くに酒臭い息を吐き乍ら来た母が私の右の頬に大きな虱が居るのを見つけ摘んで取って呉れた。満州時代で殆ど最後の母の愛情の発露として覚えている。
引き揚げの別れに際して形見に呉れたチョコレート色の虱の卵だらけのセーターも何時か襤褸々々に成って捨てて仕舞った。
ウチにあてがわれた部屋の近くに一升瓶が何本も入った押入があり、ある日、各瓶から少しづつちょろまかして呑んだら思ったより沢山呑んだらしく間もなく前後不覚に寝入って仕舞った。
今考えるに3合以上は呑んでいた。11歳の折である。
後で父が帰って来て蹴飛ばされたが酔っていた所為か全然痛みを感じなかった。父は後々迄私を蹴った事を気に病んでいたと言う。
私としては、其時蹴られた事に、さしたる被害感情は無いが親と子供とではお互いに印象の深い言動は違うものである。夫婦でもそうで、例えば新婚旅行で出会った風景や出来事の印象や記憶が細かい点でお互いに随分違うのは誰でも経験する。
此処に滞在中、先述の西本君が居るかと尋ねたら居るには居たが家の中に入れて呉れず遊びにも乗らなかった。何故かは知らない。
白菊町の近所の他の知人は誰も居なく成っていた。
西本君もそうだが、満州時代の知人の消息は今に至るも一つも無い。引き揚げてから暫くは母も含めて新聞に尋ね人を何回も出したが梨の礫だった。
いよいよ引き揚げとなって父と荷馬車に乗り母と別れたのは四平街通りの南端に当たる所に在る公園の前で、公園入り口の向かいには、上映が始まる前に最も一般的な電気ブザーの代わりに寺の鐘の音が3回鳴る映画館が在った。
百合子を抱いた白い顔の母は何時迄も手に掴んだハンカチを振っていた。
引き揚げに金が掛かるから母は後で帰ると聞かされた。本当は協議離婚したのだと後で知ったが父は遂に何の説明も呉れなかった。
夏至の次の日として覚えている、別れた日付6月22日を私は母の命日としている。父は矢張り母を捨てたので気が咎めたのか後に千歳の日蓮宗の寺に母と百合子の位牌を作って納めた。之は義母が亡くなったら引き取る心算である。
母は別れてから暫くして「こんな体に成って」と知人に言い残して自殺した。百合子が如何成ったかは定かでない。
母の自殺は道庁の役人に伝えていないから今でも母は法律上生存して居る。役人さん、御免なさい。
何時か父が、死ぬ数年前に、後添えと暮らした年数が前の妻より随分長いと述懐した時「俺は前の妻の子なんだぞ」と言ったらドキッとしたらしいが何も言わなかった。うっかりしていたのだろう。
芸能人ならずとも子連れ再婚は多いと思うが生なかな理由で再婚すると子供は相当傷つくから考えた方が良い。尤も、近頃の子供は余り感じないと言う意見も有るが。
満洲引き揚げの記へ戻る