
2004新京時代-31015
美味いと言えば、此頃北海道からか樺太からかは判然しないが偶に身欠き鰊が送られて来た。脂がコテコテと紫色に光り、するめよりも固くて歯や顎の健康には良かったし結構な味だった。今から考えると生臭さが消えて居た所為だろう。又、多分購買所から買って来たのだろう太刀魚の干物も脂が乗って居る割には上品な味で好ましかった。目刺しもサヨリも喰った記憶が有る。新京の所在は大陸も奥深い所為か、ウチの貧乏の所為か魚は殆ど干物しか食った覚えが無い。北海道の浜の人間が「鰈は腐る寸前が一番美味い」と言うのを納得する迄には随分時間が掛かった。獣肉も熟してからの方が屠殺直後よりも美味いと言うが。そんな訳で魚では鰹の水煮缶詰か味噌煮が一番好きだ。寿司のコハダも好きだが。今でも魚よりは肉の方が好きで、女房と台所の買い物に行くと偶に揉める。最近は内地の魚も生協に並ぶが女房は北海道の魚しか知らないので滅多に調理して呉れない。
満州では何処でもだが、幾つかの山査子の実に固飴をまぶして串に刺し、藁を束ねて心棒の木を通したのに刺して心棒の延長を肩に担いで満人が売り歩いていた。赤くて綺麗だが余り美味い物ではなかった。
又、練った麦粉を重曹で膨らませて1センチ太さ位のフワフワの麺状にして長さ20センチ位の物2本を軽く捻って油で揚げ、砂糖をまぶした菓子も売り歩いていた。是は私の大好物だった。日本でも、どうかすると地方で是の極く小型で堅焼きの物が売られて居て味が似ているので懐かしい。
ボイラー棟の直ぐ北奥に満人経営のチェンビン屋が有った。
米でも、粟でも、唐黍でも、凡そ穀物の粉なら何でも、厚く円い鉄板の上で直径30センチ程の柔らかいクレープに焼き上げる。原料の穀物を持って行けば、予め作って在る練り粉から、持参の穀物量に相当する枚数のチェンビンを其場で焼いて呉れる。
焼き上げた侭でも、何かタレを付けても美味いが、其れに一本の長葱を生の侭くるんで食べるとスタミナが付くと父親に聞かされた。
クレープの元のトロリとした練り粉を竹蜻蛉様の道具で広げる手際が面白く飽かず眺めた。男の子が職人技や蜘蛛の巣張りに見入ったりする癖は女の子の神経で理解は出来ない。之はボーボワールの主張には反するが歴然とした性差で、環境は余り関係無い。だから「虫愛ずる姫君」は珍しい存在なのだ。序で乍ら、ボーボワールの主張が全く正しいのなら、カルーセル・麻紀は誕生しない。私はカルーセル・麻紀は好きだが「おすぎとピーコ」と「エンヤコーラ」で売り出した歌手は嫌いだ。何故かは詮索して居ないので判らない。
チェンビンの味としては稗が存外に美味い。江戸患いにも成り兼ねない白米信仰の輩は雑穀を馬鹿にするが炊き立ての雑穀は存外に風味の濃い旨味が有る。冷えるとボソボソして不味いのが欠点ではあるが。今ではチンすれば直ぐに温かく成るのだから雑穀の旨味や栄養を見直す可きである。蕎麦を始めとする今流行の各種雑穀が、荒れ地や天候不順に強い点は勿論だろう。日本の食糧自給率が40%で将来が心配だと言う論が有るが、日本中の捨てられた田圃や贅沢の象徴であるゴルフ場に雑穀を植えれば自給率は驚異的に上がる。紳士等稀にしか存在しない日本にゴルフ場は要らない。銀舎利は昔通りに「晴れ」の喰い物に還れば健康にも良いのだ。2000年に成ってから若者の間で「素食」が流行り出した。米国型飽食の弊害に本能的に気付いた事も有るのかも知れないが、ブームに終わらなければ未だ未だ日本人の危機察知能力は捨てたものではない。只、余りに「素食」が流行ると、現在は雑穀の産出量が少ないから高値になる矛盾も生じ兼ねない。
今でも味を付けない餅では粟餅が一番好きだ。之は奉天での経験が原因かも知れない。
日本でも一頃西洋伝来のクレープが流行って直ぐに廃れ、一頃よりはクレープ屋も少なくなったが、支那では千年単位の昔から優れた庶民の雑穀調理法として連綿と今に続いている。鼓腹撃壌の哲学とか、銭は信じるが政府とインテリは信じない風土とか、支那には歴史の裏打ちの有る優れた伝統も有るから馬鹿にしたものではない。
家から余り遠くない所に一寸した大きさの児玉公園が在った。又、偶に遊びに行った郊外の動物園には各種動物の檻の他に壮大なバード・ケージも有った。
児玉公園の正面入り口に日露戦争で日本陸軍満州方面軍総参謀長を務めた児玉大将の銅像が建っていた。近年、世界中の銅像が酸性雨で腐食が激しく、中でも程度の甚だしい支那が対策費を日本にねだった事が有る。其れには別に文句は無いが、日本から毎年数千億円のODAを受け乍ら毎年国家総予算で2桁%の軍拡を続けたり自分が贔屓する他国に援助をする癖に、日本が国家としては天然自然の自衛力を画然とさせんとすればヒステリックに非難したり、あまつさえ未だに日本に対して24基のミサイル弾頭を向けて居たりする心性には賛成出来兼ねる。
此児玉大将の銅像は日本にとっては日露戦争の勝利を記念してのものだが、支那人にとっても不名誉の象徴だったらしく、日本の敗戦後いち早く撤去されたらしい。日露戦争での日本の勝利は西洋白人に対する有色人種の初の勝利として世界を震撼せしめトルコ等を感激させたのだから、此銅像が支那人にとって不名誉とは考えられないのだが。ともあれ、日本製の銅像は上野を始めモサッと立って居るのが多いが西洋には勇ましい騎馬姿が多いのは人種或いは環境に依る攻撃性の多寡の所為だろう。歴史的背景も物を言って居る筈だ。
児玉公園正面入り口の直ぐ右手には500人程度とささやか乍ら観覧席も設けられた野球場があり父に連れられて数回出かけた。当時から野球には余り興味が湧かなかったのが何故か判らない。因みに、団体競技で運動係数が最も小さいのが野球である。最も大きいのはサッカーではないか。日本のサッカーのサポーターにフーリガンが居ないのは、精々数年のリーグの歴史しか無いからか、民族性のちがいだろう。
公園正面入り口の右手奥の左側に冬にはスケートリンクになる瓢箪池が有り、くびれの所に木製の赤い太鼓橋が架かっており、右手前側に飲食や土産の店が何軒か並んでいた。
池の奥の左手が人工の小さな滝に成って居り、近くの小道を下がると広場が有り小さなメリーゴーラウンドが有った。
池のスケートリンクでは春先に氷が薄くなり水中に落ちる人が極く偶に居た。大騒ぎに成ったのを聞かないから浅い池だったのだろう。子供連れのボートも浮かんで居たから精々1m程度の深さしか無かったと思われる。札幌の中島公園や月寒公園の池もボートが浮かび、深さは1mに満たないのだから。
児玉公園にも他にも、遊園地や公園には満人の写真屋が居て、四角い赤い箱形写真機の両側に既成の写真を何枚も貼り付けて客を誘って居た。客にポーズを取らせてレンズの蓋を掛け声と共にパッと外すが早いか元通りに填めるのが面白かった。結構な腕で、ウチにも結構な数の写真が有ったが、葫蘆島に集結する際に写真を持って居ると故国に返して貰えないと言うデマが飛び、1枚も持って帰らなかったのは惜しかった。でも、後に親戚から古い写真を幾枚か分けて貰い、幼少時の自分の顔や若かりし頃の母に会えるのは嬉しい。
久しい前から、チャーチルの真似で、写真でもテレビ・カメラの前でもVサインが何処でも見られるが、手のサインは国に依って違う事が多いらしい。手招きが日本と米国では掌の向きが逆だとか、日本ではカネを表すサインが何処かの国では猥褻に成るとか、サインではないが、国に依っては子供の頭を撫でるのがタブーだとか、外国に行く際には細心の注意が要るらしい。
家から左程遠くない所に満鉄会館と女学校があった。満鉄会館の近所の塀の下に何故か雲母の多い盛り土が有り、能く掘り出して友達に自慢した。他の場所にも雲母の出る土地が有ったらしい。市内の何処に雲母が多いかは子供の間の企業秘密だった。
偶に満鉄会館に行くとコックさんが薄く切った肉を焼いてくれた。ウチでは偶に餃子を奢る以外には殆ど肉にはご無沙汰で、此焼き肉が大いに嬉しかった位だからウチは貧乏だったに違い無い。ステーキ等と言う代物には社会人に成ってから始めてお目に掛かった位だ。豚カツも喰った覚えが無いが、一度丈でも鯉の丸唐揚げを喰った記憶が有るから豚カツも喰ったかも知れない。其処ら辺は朧である。
時には満鉄会館の職員にコリント・ゲームで遊んで貰った。コリント・ゲームは今のパチンコの原型である。海軍では狭い艦内の室内遊戯として流行ったと聞いたが本当か如何かは知らない。パチンコは函館時代に始め、初めの内は5つの玉を元手にポケット・ウィスキーをせしめた事も有ったが、今は完全自動式で腕の振るい様も無く、偶に1000円を取られる以外は殆どご無沙汰である。
女学校にはプールがあって、満鉄会館の上階の窓から眺めた記憶が有るが、小学校低学年では校内に入ると言う発想も才覚も無かった。惜しい事をした(しなかった?)。
新京の夏冬は北海道よりも暑いし寒いし四季を通じて総体に湿度が低い。夏も冬も35℃に成る。夏は幾ら暑くても木陰に入れば汗が急に引いて寒さを感じる位に湿度が低い。木陰から急に日向に出ると頭に直射日光がガンと来る。冬の最中には外で一寸急な呼吸をすると鼻の穴の毛が凍り付く。今の札幌は、夏は30度を上回る事も冬に零下15度を下回る事も滅多に無いので甚だ刺激が少なく物足りない。一度旭川に出張した次の日の朝に零下25度に成り、ダイヤモンド・ダストが出たが無風の零下25度は全く寒くなく快適其物だった。2000年6月13日、予想最高気温が東京で20℃、札幌で25℃、北見で28℃である。梅雨時には斯う言う事が時に有り、別に手柄では無いが「エヘン」と咳払いの一つも仕度く成る。
新京で秋の終わりに降り始めた雪は翌春迄全く溶けずに積もり、道路は真っ白く鏡の様にツルツルに成り、古い爼の下に2本のスピード・スケートの刃を付けて橇にして遊んでも殆ど凹まず、刃の跡が僅かに付く程に堅かった。
こんな道路を能く冬場に自動車が走ったものだ。尤も当時の車は割に緩り走っていた様で夏場には子供の私でも時にはトラックに追いついて掴まって走った事もある。今と違って何しろクルマを見る事は珍しく、音を聞くなり、来るとから見えなくなる迄見送ったものだ。当時の軍隊のオートバイは「メグロ」と言い、米国のハーレー・ダビッドソンを模した国産車だったと記憶して居るが、札幌に来てから此メグロにお目に掛かって大いに懐かしかった。メグロにはバック・ギアが付いて居たと思うが別な車種だったかも知れない。日産は満州や他の占領地にトラックを納入して儲けた筈だが記憶違いだったら御免なさい。
ノッキング防止の鉛化合物の所為か如何か知らないが排気ガスの甘い匂いを覚えている。今のガソリン車の排気ガスの匂いは刺激臭が強すぎて楽しくはない。
函館の「あざみ」のママも此昔の排気ガスの匂いに郷愁を感じると言っていた。「あざみ」には独身時代に能く通い、クリスマスにはハム・エッグを作って貰いワインを1本飲んで祝った。いつもは大ジョッキで何本か飲むのが習慣だったが、或日、ビールが冷え過ぎて居て、一息に空けたら一寸気分が悪く成りママが心配した。
道路と言えば当時のロードローラーは蒸気機関で動いて居り大きな弾み車が特徴的だった。運転手や工夫は何時も満人だった。英国では之に似た作りの完動蒸気自動車の大会が有る。ガソリン車よりは「持てる者」の優越感を刺激するだろう。
舗装技術は当然乍ら今よりは低く夏にはアスファルトが軟らかく成り靴の跡が付いたり、酷い時には靴を取られたりした。場所に依っては子供の手でも掴み取れる程に柔らかく成り、少しもいでは粘土の代わりにして遊んだが、家に帰ってから洗っても手に着いたタールが仲々取れず往生した。道路工事で、熱したコールタールを砂利の上に噴射している近所を通るとタールの匂いがきつかった。
雪は飽く迄細かく、ふわふわと軽く、腰の辺り迄降り積もっても歩行に何の障害も無かった。今で言うアスピリン・スノーである。有名な六角の結晶は秋の降り初めと春の降り終わりの時期にしか見られなかった。
真冬の戸外は全く水気が無いからロシア式だか蒙古式だかのフェルト製の長靴を履いたが、あんなに暖かい靴は今でも他にお目に掛かっていない。此靴は水には滅法弱く、或春に不注意で水溜まりに踏み入れて台無しにして仕舞った。水溜まりに踏み入れると溶けるのだ!
新京から一寸南に下がって鉄嶺と言う街があって西瓜が名産で夏に西瓜狩りに行った。西瓜でも苺でも葡萄でも林檎でも蜜柑でも此「狩り」は料金の元を取る程には仲々食えるものではない。雰囲気が楽しければ良い位の了見で行かないと失望する。南に下がってと書いたが、豪州では地図の南北は日本等とは反対に成って居るので面食らう相だ。西洋の地図で日本が見落とされ相な右の端に在るのは皆さんご存じ。
鉄嶺に行く途中で交差する鉄道に車両が1台停まっていたので何かと聞くとガソリンカーと言う物だという。列車みたいに大袈裟でなく軽快な感じがした。
此頃に、揺れる鉄道車両の中で立つ要領を父に習った。進行方向から左45度に立ち、肩幅に脚を開き両足の方角を90度にして踏ん張るのである。之は後年随分役に立った。
鉄道と言えば、内地ではものの数時間も走れば必ず県境を通過するが、満州の野原では何時間走っても景色も変わらない。米国や豪州の横断鉄道では1日走っても変わらないのではないか。シベリア鉄道の総延長は9000km、平均時速100kmで走って90時間、4日間は掛かる計算になる。実際は停車時間も有るから10日は掛かるだろう。
一度祭りの御輿を見に行った。
酒臭い大人が盛大に掛け声を掛け、私もほんの一寸、子供達の御輿を担がせて貰った。肩が痛かった。
満州に限らず日本が占領地の彼方此方に神社を建てたのは宗教の強制だから悪だと言う人が居るが、負けたから云えるので、勝って居てそんな事を言ったら非国民にされる。オスマン・トルコ帝国をデカしたイスラムはスペインに迄至る占領地にマホメット教・回教を布教したが他の宗教の信奉者には寛大だった。日本が占領地の既存宗教に寛大だったか如何かは知らないが、朝鮮に創氏改名を強制したと謂われるから寛大ではなかったと想像される。日本が占領地の人間に大昔のイスラムの如く振る舞ったら今でももっと現地の人間に尊敬されて居るかも知れない。
一般に言葉でも宗教でも勝てば官軍なのだ。マホメット教のオスマン・トルコやローマ帝国の影響を知らない人は居ないと思うが。インターネットで最も先鋭的な米国の所為で米語が当面は嘗てのラテン語の様相を呈して居るのも同じ現象だ。欧州は此現象に抵抗しようと模索して居るが日本では英語第2公用語論等と嘗ての国語仏語化論者みたいな馬鹿者が出て来る程に惚けた侭だ。
序で乍ら、20世紀末から喧伝されて居るグローバリズムとは畢竟ずるに汎アメリカ主義の宣伝に他ならない。米国の云う自由主義は米国流の其れであり、自国の保護政策には頬被りをし他国の保護政策には重箱の隅をほじくるが如く大声で非難して止まない。欧州は其危険性に気付いて反撃を試みて居るが日本政府は鈍感でノホホンを決め込んで居る。
又序で乍らちょいと飛ぶが、日清・日露の戦いで戦死した日清露の兵士も大東亜戦争やベトナムで戦死した兵士等も同じく名誉の戦死である。勝ち負けで、戦死した兵士の至情に変わりは無い。有るとするのは戦勝国の独善である。靖国神社は一種西欧流の宗教を超えた存在だが其処の阿吽は毛唐やハイカラ野郎には判らない。
大東亜戦争中は日本基督教団が戦争協力に動いたので、基督教徒の戦死者も靖国神社に合祀された。戦後に基督教徒が靖国への合祀は怪しからんと抗議したが、之は別に大声を上げる程の事件ではなく、単に基督教徒の分を移柱すれば良い丈の話だったのである。
日本でも大東亜戦争に付随して基督教徒を中心とする反戦運動が有ったが、直ぐに官憲に潰された。私は全く読んで居ないので中身も知らないが、三浦綾子の「銃口」には其辺りの消息か、似た様な事例が含まれて居るに違い無い。「銃口」と在るが、之は「踏み絵」と読み替えても通ずる言葉であり、統制国家の官憲に抵抗する側の恐怖も今の若者には判るまい。天草四郎の叛乱にロマンを感じるのは自由だが、其実際の残酷をも想像出来なければ、モノが判るとは云えない。
外出では映画にも行った。中心から放射する数十本の黄色い線が有る真っ赤なバックの真ん中に映ったミッキー・マウスの顔が印象深く記憶に有る。
三中井(ミナカイ)と言う昔の三越並み、新京一のデパートにも何回か出かけた。幼児にとってデパートは何でも売って居る様に見えて其実何を売って居るかの具体的な認識は出来ない。玩具とお菓子と食堂と屋上の遊園地位しか印象には残って居ない。和服売場が畳敷きで靴を脱いだのは覚えている。
此デパートの菓子売場でチョコを買って貰ったが一度に食べると鼻血が出ると脅かされた。
デパートの食堂で食事をした事はあるが町なかのレストラン等に入った記憶は殆ど無い。一度、ボーナスの奢りか、何処かの支那料理店で鯉の丸唐揚げを喰った事が有る。日本の中華料理店でも出すが、タレのスパイスが違うし揚げ方も違うので本場の味がしない。
吉野町と言う繁華街も数回訪れた。夜なのに街がエラく明るいので驚いた。何とか銀座の存在は聞かなかった。
駅を出てから左手にロシア人経営のモロゾフと言う菓子屋が有り粒チョコを買いに数回寄った事が有る。中にブランディーの入ったチョコを喰った事も有るが全然酔わなかった。
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